2026/07/13

足元の音を掘り下げ、世界へと繋ぐ

イギリスのロンドンをはじめとして、今は名古屋と福井、オンラインを通じてシンガポールやアメリカ、ヨーロッパなど、さまざまな場所でさまざまな人に教えてきました。 異なる空気が流れる場所で音楽を教えていると、避けて通れない問いに突き当たります。それは「文化資本の格差」という、目に見えないが厳然とした壁です。

ロンドンのような都市は、長い歴史もあり、世界中からたくさんの多様な人が集まってきます。そういう場所においては様々な文化、芸術、音楽に触れることが非常に容易で、自分で積極的に努力してそういったものに触れようとしなくても、勝手に向こうからやってきます。コンサートホールでは世界的に有名な音楽家のコンサートが毎日のように開かれています。しかも日本に比べれば格安で、さらに学生ならワンコインでみられるようなチケットもあります。美術館などは無料だから、暇つぶしに足をはこんで教科書でしか見たことがない、歴史的名画をみることができる。私たちの隣人はイギリス人、スロヴァキア人、ポーランド人、イラン人、ユダヤ人、トルコ人、日本人などがいました。隣人を通じて、世界の文化や習慣、状況について色々学んだり、考えさせられたりします。

そういう場所に住んでいる人たちに比べて、日本の、とくに地方にいると、文化や芸術に関する情報や、それに接触できる体験は非常に限定的であることを実感せざるをえません。もちろん地方には地方の良さや、そこでしか得られない体験があるという事も事実です。しかし、その「地方ならではの良さ」を肯定することと、世界と地続きであるはずの文化的な文脈から切り離されてしまうことは、全く別の問題です。

心地よい日常の中に安住し、外側の多様な価値観に触れる機会を失ったままでいると、知らぬ間に自分たちの立ち位置を客観視する「物差し」まで失ってしまいます。ロンドンのように異質な存在が隣り合わせに生きる場所では、嫌でも「自分とは違う文脈」を意識させられますが、変化の少ない環境では、今ある景色が世界のすべてであるかのような錯覚に陥りかねません。

私が抱く危機感は、単に地方が文化的に遅れているという単純な比較ではありません。むしろ、「自分たちが何かの文脈の中にいることすら意識されない」という無自覚さへの危惧です。


「知らない」ことの境界線

文化的教養とは、それを知らなくても日々の生活に困るものではありません。しかし教養は、世界の解像度を劇的に変えるレンズであり、同時に自分の外側にあるもの——異なる時間、異なる場所、異なる考え方——と出会うための装置でもあります。

たとえば、バッハの旋律をただ「綺麗な曲」として聴くのと、その背後にある数学的・建築的な構造や、宗教的あるいは世俗的な作曲背景、和声法と対位法の融合、前の世代から何を受け取り、後の世代は何をうけとったかという歴史的な文脈などを知って聴くのとでは、耳に届く情報の密度が全く違います。あるいは、ロンドンの街角で見かけた古い建築が、どの時代の様式で、だれが、どのような思想や美学を背景に建てられたかを知るだけで、ただの「古い壁」が、数世紀前の人間と対話するための入り口に変わります。

教養を持つということは、単に知識の量を増やすということではありません。そうではなく、自分の外側にあるもの——自分とは全く異なる時間、場所、考え方の中に生きた、あるいは今を生きる人々——と出会うための「合言葉」を手に入れるようなものです。その合言葉を知らなければ、目の前にどれほど豊かな世界が広がっていても、それはただの風景として通り過ぎていってしまいます。

「知らない」という状態は、一見すると平穏です。しかしそれは実際には、「選び、参加するための選択肢」そのものが最初から存在しない状態にほかなりません。この状態をあまりに肯定しすぎることは、結果として、世界中で交わされている豊かな対話の輪から自らを切り離し、「文化的な辺境」に留まり続けることを意味しないでしょうか?たとえそこが居心地良くても、その外側にある広大な世界とのつながりを持たないことは、知らぬ間に自らの自由を狭めてしまうように思えます。

こうした「歴史や他者とのつながり」は、何もクラシック音楽や古い建築といった、過去の遺産に限った話ではありません。むしろ、私たちが今この瞬間に享受している日常的な娯楽の中にこそ、その系譜は脈々と息づいています。このことは、たとえば、日常的に耳にするジャパニーズ・ポップスを例にすると、より明確になります。一見、伝統的な教養とは無縁の、現代的な娯楽に見えるかもしれません。しかし、その骨格を成しているのは、数百年にわたって西洋音楽が積み上げてきた伝統的知性そのものです。そのような仕組みについて知ることで、私たちは「ただ聞く」という受動的消費から一歩踏み出し、何世代にもわたる創作者たちとの対話に参加できるパスポートを持てるのです。 たとえ物理的に「辺境」と感じられる場所にいても、私たちは知らず知らずのうちに、もっと大きな世界のコミュニティの音楽的対話の末端に繋がることができます。

問題は、その仕組みを意識することなく恩恵を享受しているだけでは、結果を消費することに留まってしまう点にあります。自分の足元を掘り下げてみれば、そこには必ず世界や歴史へと続く巨大な系譜が流れている。その事実に無自覚であることは、自分を閉じ込めている境界線に気づかないまま、知らぬ間に世界から孤立していくことではないでしょうか。


補助線を引くという試み

私が今この場所でできることは、目の前の人が手にしている「好きなもの」の背後に、世界へと続く一本の「補助線」をそっと引いておくことだと思っています。

それは、いま耳にしているメロディが、実は遠い時代の人々が積み上げてきた和声の論理と地続きであるということを提示することかもしれません。あるいは、聞き慣れないリズム構造を解きほぐして見せることで、自分が知っている音楽の枠組みの外側に、まだ見ぬ広大な表現の選択肢が存在することを示すことかもしれません。

こうした小さな気づきを、日常の隙間に置いておく。 それはすぐに何かの役に立つわけではないし、今はただの「余計な情報」として聞き流されるかもしれません。しかし、いつか彼らが自分の立ち位置を問い直そうとするとき、その補助線がパッと道を照らし、世界を一気に広げる「種」になるのではないかと思っています。

足元の音を、世界という大きな対話の系譜へと繋ぎ直すこと。 自らが選ぶことのできない環境の中で、しかしそこに無自覚に閉じ込められるのではなく、そこから自ら選んで世界と対話するための「言葉」を手渡していくことが大事だと考えています。


2026/04/18

音楽がつなぐ世界と、生徒からの学び

日本語がまだあまり得意ではない海外出身の方や、日本語よりも英語の方が得意な日本人の方、英語学習を兼ねてレッスンを希望される日本語ネイティブの方など、さまざまな理由で、英語でのレッスンを希望される方が増えています。

海外出身の生徒はもちろん、日本人の生徒もまた、海外に興味を持っているだけでなく、実際になんらかの繋がりを持っていたり、多言語を操ったりと、非常にユニークな背景や視点を持っていらっしゃる方が多いです。かつてロンドンで活動していた頃は、人種や国籍など多種多様な背景をもった生徒が来るのが日常でしたが、日本に戻ってからもこうして多様な背景を持つ方々と音楽を通じてつながれることを、とても嬉しく感じています。

先日ギターのレッスンで、フランス人の生徒と一緒にフランス民謡の『月の光(Au Clair de la Lune)』を弾きました。よくギターやピアノの初心者向けの教材に出てくる定番の曲ですが、フランス語の歌詞、その背景やニュアンスを教えてもらうことで、曲をより立体的に捉え直すことができました。まだまだ知らないことがあるし、こうした発見があるからこそ、音楽への興味は尽きることがありません。

こうした経験をするたびに思うのは、講師が知っている知識を一方的に伝えるだけの時間は、あまり面白いものではないということです。昔たくわえた音楽の情報を切り売りすることが講師の仕事だとも思いません。本来、講師は生徒と共に音楽に向き合うなかで、一緒に成長し、変化していくもの、「生徒こそが、良い講師を育てる」のだと実感しています。

2026/03/24

音楽を聴く技術 (ベンジャミン・ザンダーに学ぶ)

日本の教育現場や社会では、古くから「細部を疎かにしない」、そして「正しくあること」が美徳とされてきました。音楽のレッスンの世界でも、間違いを指摘し、それをきちんと修正することが上達への正解だと、教える側の人間も、そして生徒も無意識に信じている部分があるかもしれません。しかし、その「正しさ」への情熱が、いつの間にか欠点を見つけるための鋭い視線へとすり替わり、私たちの音楽への感性を閉じてしまっているように感じることがあります。

イギリスの指揮者、ベンジャミン・ザンダー氏(Benjamin Zander)が語ったあるエピソードは、そうした私たちの聴き方の根底を揺さぶるものです。

インドでの「無反応」という体験

ザンダー氏が、インドで600人のビジネスパーソンを前に講演した時のことです。ザンダー氏は最高の情熱を注いで話をしたのですが、客席は完全に受動的(Passive)で、笑いも反応もありません。彼はひどく落胆し、パートナーに「最悪だった、手応えがなかった」と電話でこぼしました。

ところが、その後のパーティーで観客たちはザンダー氏を熱烈に迎え、人生が変わったと涙ながらに感謝を伝えてきたのです。ザンダー氏は戸惑い、なぜ会場であれほど静かだったのかと問うと、観客たちは言いました。「トップがその場にいる限り、私たちは感情を出すことは許されないのです」

「聴くことの芸術」と双方向の対話

この経験を通じて、ザンダー氏は「聴くことの芸術(The art of listening)」について語っています。

私たちは「演奏の技術(The art of performing)」については語りますが、与えられたものを受け取る「受容の技術 (The art of receiving)」についてはあまり語りません。しかし、演奏者と聴き手の間には双方向の会話があり、それは一つの「愛の関係」なのだとザンダー氏は表現します。

「演奏者にとって、自分がどういう存在としてそこに居るのか、考えてみてほしい」

もし聴き手が反応しなければ、その大切な関係を育むことができず、音楽の成立の極めて重要な部分を逃してしまうことになります。よく見過ごされることなのですが、音楽は演奏する側だけでは成立しえないものなのです。

観客は「敵」か「恋人」か?

今の若い音楽家の多くは、「観客は批判的で、ミスを待ち構えている敵だ」と教えられて育つ傾向があります。もし聴き手が間違い探しをするように聴いているなら、演奏者はそれに応じて萎縮してしまい、ミスのないことだけを目的とした「守りの演奏」になってしまいます。

しかしザンダー氏は、実際はそうではないと断言します。 「観客は演奏者の友人であり、恋人なんだ。彼らはあなた(演奏者)が最高に輝くことを願っている。その思いは、彼らの顔の輝き(Spark)に表れている」

私たちの教室でも

私たち講師も、仕事柄、演奏の粗を見つけなければならない場面が多々あります。しかし、ただ間違いを探す審査員として座っているだけでは、よい音楽は生まれません。

ザンダー氏は、聴き手を単なる観客ではなく、演奏の不可欠なパートナーだと捉えています。私たちがどのように聴くかが、その場で生まれる音楽の質を変えてしまう。 そのことを忘れずに、生徒が差し出す音の最高の受け取り手であれたらと思います。

これを読んでいるあなたも、今日から誰かの演奏を聴くとき、少しだけ「自分はどういう存在としてここに居るか」を意識してみてはいかがでしょうか。


ザンダー氏のエピソードは下の動画から聞けます。: