2026/08/31

作曲のすすめ

ジャン・ジャック・ルソーは、著書『エミール』の中でこのように述べています。

「音楽をよく知るには、それを表現する(演奏する)だけでは足りない。自ら作らなければならない。そして表現することは、作ることと同時に学ばなければならない。そうでなければ、決して十分に音楽を知ることはできないのだ」

私がかつて学んだイギリスのギルドホール音楽演劇学校では、演奏科の学生であっても、成績評価の対象となる試験の中にエッセイと並んで必ず作曲が含まれていました。音楽理論や美学といったバラバラの知識を、一つの作品として結実させる中で実践してみせることが求められたのです。

バッハやモーツァルトの時代、音楽家が演奏家であると同時に作曲家であることは、ごく当たり前のことでした。しかし時代が下り、専門化・分業化が進むと、作曲家は書くことのみを、演奏家は弾くことのみを担うようになりました。それによって技術は極限まで洗練され、高度な表現を獲得した一方で、音楽家としての在り方に、どこかいびつな形を生んでしまったようにも感じます。

ある時、バッハの組曲をすべて暗譜しているほど優秀なピアノ専攻の生徒がいました。ところが、その生徒にごく初歩的な対位法の課題を出してみると、一行も筆が進まないのです。数え切れないほどの対位法の傑作に触れてきたはずなのに、自分で書くとなった途端に、言葉を失ってしまいます。

赤ん坊の頃から言葉を学び、膨大な書物を読み耽りながら、死ぬまで一度も自分の言葉で話したことがない人がいるとしたら、それはとても奇妙なことに思えます。しかし、残念ながら現代の音楽界には、こうした話せない読書家が溢れているのです。

私は折に触れて生徒たちに作曲を勧めますが、実際に書いてくる生徒はほとんどいません。皆「忙しいから」と口を揃えます。きっかけを与えることはできても、その一歩を踏み出させることは容易ではありません。

しかし一方で、何も言わずとも、ある日突然曲を書いて持ってくる生徒がいます。音楽理論も技術もまだ知らない人が書く音には、驚くほど面白い発見があります。音の組み合わせ方にその人だけの奔放な発想があり、こう書かなければならないという気構えが一切ありません。何だかよくわからないうちに作ってしまった――そんな、純粋な初期衝動に満ちています。

作曲の方法がわからないという声もよく耳にします。しかし、本来、作曲に決まった作法など存在しません。

作曲をするというのは、必ずしも作曲家を目指すということではありません。あるいは、特別な才能の迸(ほとばし)りが必要なわけでもありません。私たちが日々の出来事を手記に留めたり、誰かに手紙を書いたりするように、音楽という言葉を使って自分の思いを形にしてみる。それだけのことなのだと思います。




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